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陸前高田に移住して12年、山本ひろみさんが見つけた「ちょうどいい距離感」
「のんびり楽しく暮らさせてもらっています」——。そう語る山本ひろみさんは、九州・長崎県出身。2013年、結婚を機に岩手県陸前高田市へ移住しました。震災から2年後、復興のまちに足を踏み入れたひろみさんにとって、ここでの暮らしは新しい挑戦であり、柔らかな日常の積み重ねでもありました。
現在は3人のお子さんの子育てをしながら、手話通訳員として宮城県内で勤務しています。生活のなかで大切にしていること、移住の決断に迷いはなかったのか、そして陸前高田で見つけた「自分らしい働き方」について、お話を伺いました。
「ついていく」移住だったけれど
2011年の東日本大震災の後、夫である山本健太さんがボランティア活動をきっかけに東北に入り、先に陸前高田市へ移住していました。当時交際中だったひろみさんは「俺、行くからね」とだけ言われたそうですが、その言葉に大きな迷いや戸惑いはなかったといいます。
「結婚前ではありましたが、すでに一緒に暮らすことを考えていたので、彼が行くなら私も……と自然な流れでした。行く先に何があるのか、深くは考えていなかったかもしれません。でも、違う土地に住むこと自体に抵抗はなかったですね。もともと高校卒業後に県外へ出ていたので、“また一つ別の場所に住む”という感覚でした」
その柔らかな決断が、結果として「心地よい暮らし」へとつながっていきます。
見知らぬ土地、見慣れない子育て
2013年に入籍し、同年6月に移住。移住後は、すぐに就労支援を通じて地元のお菓子店に勤務し始めました。元々パティシエとして働いていた経験を活かした再スタート。しかし、まもなく妊娠が分かり、仕事は一時休止することになりました。思っていたよりも早く「母親」としての時間が始まりました。
「子どもを産んでから、自分の体力がこんなにも落ちるなんて思っていませんでした。子どもと一緒にいると風邪をもらいやすくて、自分も体調を崩す。感染症が流行れば保育所から呼び出しがある。独身のころにはなかった“予測不能なこと”が、日常になっていったんです」
想像していたママ像とは少し違う現実。でも、支えになったのは地域のつながりでした。
「夫がもともと地域のいろんな人と顔なじみだったので、子育て支援センターにも行きやすかったんです。普通なら母親が自分で情報を探さないといけないけど、私は夫を通じて自然とつながっていけた。これはすごく助かりました」
「バリバリ働く私」が変わった理由
出産後も働くことを諦めたわけではありませんでしたが、育児と両立する中で、働き方や価値観は少しずつ変化していきました。
「最初は“週6勤務でバリバリ働こう!”という気持ちでこっちに来ました。でも、子どもがいると思うように働けなくて。“これだけできるのに”と思って、周りのせいにしてしまうこともありました。今思えば、もっと自分の状態を客観的に見て、働き方を整える余裕があればよかったなと感じます」
その後もカフェの手伝い、地域の事務業務、イベント補助など、多様な仕事に関わりながら、自分なりのペースを模索。現在は手話通訳員として、条件のよい働き方に出会い、家庭と両立できる日々を送っています。
「今は“現状維持できたら”と思っているんです。この働き方はありがたいですね」
陸前高田で育つ、3人の子どもたちとともに
現在は3人の子どもたちと夫との5人暮らし。長男は10歳、次男は8歳、長女は4 歳とまだ幼いながらも好奇心旺盛。家族の日常は賑やかさと工夫に満ちています。
「長男は絵を描くのが好きで、次男は工作に夢中。長女はプリンセスやプリキュアにハマっていて、自分が子どものころよりも“女子”っぽいです(笑)」
それぞれの興味関心の変化に合わせて、地域の行事や外出先も工夫。かつては音楽イベントに家族で足を運ぶことも多かったそうですが、子どもたちの成長に伴い、遊び方や関心も変わってきたといいます。
「演奏会に連れて行けた幼いころとは違って、小学生になると“外で遊びたい”“ゲームしたい”という気持ちが強くなってくるんですよね。音楽関係のイベントにはあまり行けなくなったけれど、地元のお祭りや産業まつりには家族で出かけています」
「この先」も、家族と相談しながら
移住当初は「10年くらいで地元に戻るかも」と話していた山本家。ですが、状況は大きく変化し、中古住宅を購入しリフォームして住むことを選びました。その背景にはコロナ禍や仕事の安定など、さまざまな要因がありました。
「進学などの節目でまた考えよう、というのが今のスタンスです。例えば長男が高校や大学で県外へ行くことになったら、そのときまた家族で考えます。先のことはあまり決めすぎず、できることをできる範囲でやっていく感じですね」
「誰かのために」から、「自分たちらしく」へ
もともと、パティシエとして働いていたひろみさん。お菓子作りの楽しさを知ったのは、高校時代に友人にお菓子をあげて「美味しい!」と喜んでもらった経験がきっかけだそうです。今でも時折、誰かのためにお菓子を作っては、笑顔をもらっています。
「久しぶりにお菓子作りを再開したら、思った以上に大変だったんですけど……でも、喜んでくれる人がいるから、それで十分なんですよね」
“バリバリ働く私”から、“子どもたちと歩む私”へ。
ひろみさんは今、家族や地域の関係性のなかで、「自分たちらしく」暮らしていく道を選び続けています。完璧ではなく、でも丁寧に、暮らしと向き合う——そんな日々の積み重ねが、やがてまちのやさしさにも繋がっていくのかもしれません。
「私は陸前高田に来て、結果的に良かったと思います。環境に適応できたし、周りの人にも恵まれていて、今ある生活を楽しめている。だからこそ、ここでの暮らしを“正解”にできていると思います」
ひろみさんはゆっくりと答えてくれました。
Text:清水健太