どんな生活をしようか

2019.09.18

コンテンツ

山﨑風雅です。高田暮舎では、広報まわりを担当しています。

取材や執筆、SNSの運用、ポータルサイトづくり、といった
‘移住’にまつわる情報発信をしています。

 

という風にいうと、「ライターの山﨑さん」になることができます。

 

最近は、「漁師もやってるんでしょ」と声をかけてもらうことも増えて
少し嬉しかったりもする。

ただ、私は、ライターをするために、漁師をやるために、このまちにきて居るのかというと
そうではない気がしていて、という話を
今日はしてみようと思います。

 

初めて陸前高田に訪れたときに得た、「生きてるー!」という感覚をよく覚えています。
そして、まわりに似たような感想をもつひとも多かった。

でも、あの感じはなんなんだろう、と思う。

 

なんなんだろう、の先に、
このまちと、このまちで生活する人たちがいて、そこにヒントがあるような気がしていました。

「あの人たちの住む世界を私ももっと、この目で見てみたい。」

そのうちに、’移住をする’という選択が一番しっくりきていた。

よく漁に連れて行ってもらいますが
ただ仕事的な意味合いよりも

「生きるってなんだ」の解へは、特に海に居る時に近づいている気がするから
自由な時間をみつけると、海へ向かうことが多い、という方が正しいかもしれません。

ある日は、海の中。

海中という状況、360°身のまわりを全て自然に包み込まれると、結構怖い。何かにすがりたい。

でも、頭を使うとジタバタしたくなるので、海のなかの世界に集中してみる。
そうすると地球と一体になっていく感覚(?)があります。その瞬間が好き。

そんな戸惑いや発見を、23歳にして初めて得てみたり。

 

ある日は、海の上。

隣町の気仙沼で。

見える景色も海の様子も色も、同じ日はなく
網に入る魚も、いつも違う。

「締める」という技術を習得するために、活きた魚の神経を抜く練習をさせてもらいます。

この日は失敗して、魚が不自然に痙攣しだした。猛烈に怖い。

自分に何か害が及ぶかもしれない、というリスク的な恐怖とは全く別で
目の前で命がむき出しになっている状態、それを殺めていることへの本能的な怖さ。

思わず、目を背けてしまった。

弱いなあ、と思う。

 

多めに分けてもらったその日の魚は、帰りがけにいつもお世話になっている方の家へ持ち寄る。

いただきものと、いただきものの交換なのだけど。

アジとイナダは、とれたてトマトになった。感謝感謝、と思います。

 

 

「生きている」ものたちとの間で交わされる、こういったやりとりを
私はこのまちで、もっと続けてみたい、と思うんです。

それが今、いちばん「いいな」と思う方法であり、
在り方なのかもしれません。

いろんな人が、一生懸命、このまちでよりよく生活をする方法を
探したり、試したり、つくったりしている。

まわりに生きる人たちが、私の目にはそんなふうに見えるぶん
目の前で起きる小さな一つ一つのものことも、
もっとちゃんと拾っていける気がするのでした。

 

おわり。

執筆者プロフィール

高田暮らし