「こちらにきてからは私自身が勇気づけられる場面が多いんです」。陸前高田市発の「防災減災」を日本全国、世界へ。

2018.10.03

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「このまちだからこそ」という事柄は、陸前高田市に多くあります。

農作物や海産物、ここに住んでいる人々の人となりなど。これまでインタビューを重ねてきた「移住者」の方々は、そんな陸前高田市特有の事柄をそれぞれが感じていました。

 

今回お話を聞いたのは、陸前高田市防災局防災課 課長補佐を務める中村吉雄さん。

中村さんの行っている仕事も「このまちだからこそ」必要とされていることのひとつです。
2013年4月からこれまで陸前高田市で防災の仕事に携わってきた中村さん。「陸前高田市 東日本大震災検証報告書(以下、検証報告書)」の作成を手掛け、その後、検証報告書で得た教訓を形にした「避難マニュアル」、「避難所運営マニュアル」、「災害時初動対応マニュアル」等を策定しました。

 

陸前高田市での防災の仕事を最前線で行う中村さんはどんななりゆきで、陸前高田市に移住して、この仕事に携わるようになったのか。その話の原点は1995年に遡ります。中村さんは、当時学生だったその頃を思い返しながら、話し始めてくれました。

 

1995年は「阪神淡路大震災」が発生した年。中村さんの出身地であった兵庫県芦屋市は甚大な被害を受けました。震災の発生時、県外の大学に在籍していた中村さんは、発災後すぐに芦屋市に戻り被災者の救援や、避難所運営の手伝いなどを経験しました。「当時はまったく防災に興味はなかった」という中村さんが「防災」というキーワードを意識するようになったのは、この経験がきっかけでした。

「被害の様子がテレビやラジオ、新聞などのメディアで大きく取り扱われ、当時、多くの研究者が被災地に駆けつけて、被災地の状況を解説していたのだけど、どうも被災者の我々とは感覚が違う。その伝えられている内容の違和感から『今、自分が被災者側に立って感じていることを、なんらかの形として残していかないといけないな』と思うようになりました」

それから大学院に進学した中村さんは大学生の時に学んでいた専攻科目を変更し、「都市防災」を学び始めます。大学院修了後は、防災関連に係る業務等に携わり、特に、教育機関等では、「災害に備える大切さ」を若い世代を中心に伝えてきました。
2011年3月の東日本大震災の発生から2週間後に知り合いがいた岩手県宮古市に訪れました。被災地の状況を見た中村さんは「その光景やにおいから阪神淡路大震災の頃が思い出されてきた」と言います。


東日本大震災発生後の様子

 

「被災地にいると、取り残された気になるんですよ。情報が一番入らないのは、被災地なんです。他県の方々が被災した様子をメディアで見て『大変だ、支援してあげよう』となっている頃に、被災者側は情報が入ってこないので、取り残された気になる。だからこそ、遠くから見ず知らずの人達に支援しに来てもらった時は勇気づけられるんです。阪神淡路大震災の時、自分の経験したことがまさにそうでした。だからこそ、専門的な知識を発揮しようということではなく、地元の人ではない私が東北を訪れることで、被災した方々を励ますことができないかと思いました。」

 

被災地に訪れたことで「何か自分が役に立つことはできないか」と考えた中村さんは、東京に戻った後、岩手県が防災の仕事に携わる職員を募集しているという話を耳にし、応募。

採用が決まると、特に被害の大きかった陸前高田市に赴任しました。着任したのは2013年4月。雇用期間は3年間と定められていました。

 

「陸前高田市に移住してすぐは、検証報告書の作成に携わりました。作成の目的としては、「なぜ、これほどまでに大きな被害となってしまったのか、また、この経験から学んだ教訓を、国内をはじめ世界に伝える」の2つが主でした。その後、検証結果を『なにか形にしないと風化してしまう』と思い、陸前高田市オリジナルの避難マニュアルと避難所運営マニュアル、市職員の初動対応マニュアルを作成しました。避難所運営マニュアルに至っては、市内11地区及び隣の住田町で避難生活をされていた方々と一緒に話し合いをしながら、内容を決めました。これからの防災は、行政からのトップダウンではなく、市民と行政が一緒に考え作りだす。協働が重要だと思っています」

 

 

岩手県職員として3年間働いた中村さん。その後も市職員として、引き続き陸前高田市での仕事を続けています。

ここまでお話を聞きながら、陸前高田市の防災減災に向けた取り組みにただごとではないような中村さんの意識の強さが感じられます。

それだけの強さを持った陸前高田市の防災減災に向けた意識はどこからきているのでしょう。

 

「大きくふたつあって。ひとつは先程お話したように、仕事の内容、専門的な知識という事ではなく、陸前高田市のみなさんを私が勇気づけることができればという想いがあります。ただ、こちらにきてからは私が勇気づけられる場面が多いんです。『本当によくきてくれた』とか、講座や研修の講師として指名してくださる方たちもいて。私のことを大事にしてくださっている感じが伝わってきます。なかなかこういう環境はないと思うので、やっぱりその分、このまちに貢献できるようにしたいなと思っています。ふたつめは、このまちが経験したことだからこそ、伝えること、発信できることがあるということです。陸前高田市から発信される防災減災に関する情報は、やっぱり意識して受け取られるところがあると感じています。なので、これからは陸前高田市が防災減災を考える拠点となれるように。そして日本全国、また世界へ防災減災に関する情報を発信するまちになれるように取り組んでいきたいです」

 

自らも学びを得ながら、陸前高田市の人たちに必要とされている感覚があって仕事ができているからこそ、中村さんはこれだけの熱意を持って「陸前高田市の防災、減災」に携わることができているのかもしれません。中村さんはこれからも地域住民の方々と協働しながら、陸前高田市から防災減災についての取り組みを、日本全国、世界に向けて発信していきます。

 

「このまちで生活することで、自分としてもいろいろ学ばせてもらっていることがあるので、僕は、このまちに住まわせてもらっているような感覚があります。これからも引き続き、このまちで頑張りたいです」

 

(Text : 宮本拓海(COKAGESTUDIO))

移住者プロフィール

中村 吉雄 さん

兵庫県芦屋市出身。1995年に出身地である芦屋市が「阪神淡路大震災」の被害を受けたことをきっかけに「防災減災」の仕事に携わるように。2013年4月から岩手県職員として、2016年からは陸前高田市職員として、陸前高田市の「防災減災」に取り組んでいる。

インタビュー場所について

インタビューをした場所:陸前高田市防災消防センター

中村さんの職場は陸前高田市防災消防センター内にあります。
防災課の職員は24時間携帯電話を持ち歩き、いつでも急な連絡に対応できるようにしたり、休日でも当番制で市内で待機する職員が決まっているそう。
「それくらいしていないと、自分たちが持ってる仕事の責任っていうのは、やっぱり果たせないですよ」と中村さん。
お話してくださった言葉のひとつひとつから、陸前高田市の防災減災にかける中村さんの意気込みが強く伝わってきました。

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