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原始から切れ目ない時代ごとの文化資源や郷土への誇りを受け継ぐまち
陸前高田は、三陸の海がもたらす豊かな自然を背景に、長い時間をかけて地域文化が育まれ、それらが重なり合いながら歴史を紡いできました。先人たちはこのふるさとの宝に誇りを持ち、度重なる津波にも負けずに現在の私たちに残してくれました。
陸前高田は郷土の誇りを受け継ぐまちです。
化石に見る陸前高田の地質時代
陸前高田市は地質学的には南部北上山地に位置し、主として先シルル紀の花崗岩、古生界、白亜紀の花崗岩が分布しています。南部北上山地の中・古生界は化石の豊富な浅海成の堆積物からなり、その分布はわが国で最も広いものです。
陸前高田市は、古生界の中でも石炭系やペルム系が広く分布し、これらの地層はわが国のこの時代の地史を明らかにする上で重要な位置を占めています。
特にも矢作町雪沢、同飯森地区は、地質学上重要な化石が多く産出する地域として全国的に知られています。
縄文 奇跡の海と水産日本のルーツ
親潮と黒潮が出会う世界三大漁場の一つである奇跡の海「三陸沖」。その恵みを受け高度に発達した貝塚文化が陸前高田市に誕生したのが、今から約6,000年前です。陸前高田市広田町の中沢浜貝塚をはじめ市内の貝塚から出土する骨角製漁撈用具は、現在使用されている漁具の原型と考えられ、質・量ともに日本を代表するもので、「水産日本のルーツ」と呼ばれています。
また、中沢浜貝塚は、明治時代から人類学者らが訪れ、発掘調査が行われ、縄文時代の墓や、土器に入れて大事に埋葬された赤ちゃんなどが発見されています。これらの発見は貝塚がゴミ捨て場ではなく、人間や動物の魂の送りの場所であることを物語っています。中沢浜貝塚はこのような発見によりその後の人類学、考古学研究に大きく貢献しています。
弓矢状配石遺構
陸前高田市小友町の門前貝塚も学術的価値の高い重要な貝塚の一つです。平成元年の発掘調査では、弓に矢をつがえたような形に石を並べた「弓矢状配石遺構」が発見されました。最大幅7m超の大きな配石遺構は、縄文時代後期に台地の上の集落や貝塚に対し、海に面した低いところに作られ、矢の先は広田湾に向けられています。海からの魔物の侵入を防ごうとした遺構であると考えられています。海からの魔物とは何を意味にしているのでしょうか。
交易の拠点だった陸前高田市
陸前高田市を含む、宮城県沿岸北部から岩手県釜石市の一部までを「気仙地方」と呼びますがこの「気仙」という言葉は今から約1200年前に初めて登場したといわれています。
陸前高田市高田町の小泉遺跡からは8世紀~9世紀にわたる大量の墨書土器が出土しました。中でも「厨(くりや)」と書かれた特別な墨書土器は古代官衙(かんが=役所)関連の施設があった可能性を示唆しています。このことからも当時の気仙地方は、北方交易の拠点として栄えていたことが伺えます。また、気仙地方の金山は当時からその存在が広く知られており、中国でも金は「日本のみちのくで産する」と伝えられていたと言います。
気仙大工・左官と高田松原の景勝
幕末期、仙台藩領だった陸奥国に属していた気仙地方。陸奥国の分割に伴い、近代以降は陸前国の所属となります。この変遷期に建てられた普門寺三重塔には気仙大工の繊細優美な技術が施されています。また、気仙大工とならんで各地で活躍した気仙職人に「気仙左官」があります。明治から昭和初期にかけて年中、ふんどし一丁で壁塗りをしていたことから「はだかかべ」と呼ばれた竹駒の阿部浅之介に代表されるたくさんの腕の立つ左官が出稼ぎに出ておりました。その痕跡は西磐井郡花泉町に点在する「気仙壁」など、現代でも陸前高田から離れた遠方の地に残っております。
また、江戸時代に高田の豪商・菅野杢之助によって植栽され、その後、享保年間には松坂新右衛門による増林が行われ、合計7万本もの松からなる仙台藩を代表する防潮林であった「高田松原」は景勝地として評価されました。東日本大震災により壊滅したこの松林のうち1本が津波に耐え残り、「奇跡の一本松」として復興のシンボルとなりました。
左は震災前の写真。右は震災後に部材を回収した時の写真。(写真提供:東海新報社)
吉田家住宅
江戸時代、仙台藩領気仙郡の政治の中心地は、現在の陸前高田市気仙町今泉地区でした。気仙郡内の村方役人のうち、最上位の役職を大肝入(おおきもいり)といい、今泉の吉田家は、大肝入の職を長く務めました。
吉田家が享和2年(1802)に建てた邸宅のうち、主屋・長屋(納屋)・味噌蔵・土蔵の4棟は、大肝入屋敷の貴重な遺構として、平成18年(2006)に岩手県の文化財に指定されました。震災時の津波により全壊となり、一部の部材を流失。改修作業の結果、現在は主屋のみ文化財指定が継続される見通しとなり、歴史・文化を活かした今泉地区復興のシンボルとして復旧に向けた準備が進められています。
400年前から今なお続くけんか七夕
陸前高田市に伝わる伝統行事として「けんか七夕・うごく七夕」が現在も開催されています。気仙町けんか七夕祭りの歴史は400年前からと言われ、岩手県無形民俗文化財に指定されています。山車と山車をぶつけあう大迫力の様相は市内外にファンが多く、毎年多くの方が陸前高田市を訪れます。このけんか七夕、うごく七夕の山車は、和紙を染めて手で折った紙飾り「あざふ」を数万枚用いて飾り付けたもの。山車が動くに連れて、あざふを集めて作ったすだれやぼんぼりが色鮮やかに揺れ、風情ある祭りの風景が見られます。けんか七夕と聞くと物騒な名前ですが、元々は鎮魂のためのお祭りであるそうです。山車は震災の際に4基あった山車のうち3基が津波で流され、残された1基では“けんか”という形にはなりませんでしたが人々の熱い想いにより2011年は1基で巡行しました。その後2013年に1基が新調され、現在では従来の山車をぶつけあうスタイルになりました。あなたもこの町へきて、けんか七夕の歴史をつないでいきませんか?