コンテンツ
今回お話を伺ったのは、佃実佳さん。佃さんは、兵庫県加古川市出身。2013年から5年間、「いわて復興応援隊」として活動してきました。現在は陸前高田市内に住みながら、気仙地域で保育士として働いています。
佃さんが初めて陸前高田へ来たのは、2013年の4月。総務省の復興支援員制度を活用した「いわて復興応援隊」として活動するためでした。いわて復興応援隊は、地域振興や復興のための地域活動をとおして三陸の復興や地域の活性化を目指す制度です。
陸前高田に移住するまで、兵庫県内で保育士として働いていた佃さん。応援隊になるまで、岩手県はもとより、地元・兵庫県を離れたことはなかったそう。
どうして、陸前高田に来ることになったのでしょう? まずは、移住に至った経緯から伺いました。
東北の人たちのために、自分にできることをしたい
「移住のきっかけは、本当にたまたま、いわて復興応援隊の募集を知ったことです。
ちょうど、勤めていた児童養護施設を退職してフリーターをしていた頃でした。毎日ゴロゴロしてすごして、でもそろそろ働かないとなあと思い始めて。働くなら、人のためになる仕事がしたいと思ったんです。どんな仕事も人のためになるのかなと思ったのですが、ふと東北のことを思い出したんですよね。
震災がおきた時、私は勤務先の児童養護施設にいて、子どもたちとテレビでその様子を見ていました。画面越しに『同じ日本で起きていることなのか』と衝撃を受けて。でも、当時は自分の仕事で手いっぱいで、募金や物資の支援くらいしかできなかった、という気持ちがどこかに残っていたんです。それから『東北では今も苦しい思いをしている人たちがいるのかな』『自分にできることはあるかな』と考えるようになりました」
「東北の人たちのために、自分のできることをしたい」と考えた佃さんは、探していた求人のなかから「いわて復興応援隊」の募集を見つけ、応募。東京での採用試験を経て、応援隊の一員として陸前高田市へ移住することになりました。
応援隊の任期は、最長5年間。佃さんは「何年いるかわからないけど、岩手に行ってくる」と、2013年3月、陸前高田に飛び込みます。
「昔から、なんでも自分で決めて進んでいくタイプだったんです。だから、家族や友人は驚くというよりも『またか』みたいな感じで。でもその方が、自分で決めたことやから失敗してもいい、嫌なことがあっても自分で決めたことやからしゃあないなって思えるんですよね。
陸前高田の被災状況や、どんな人が住んでいるのかも知らなかったし、活動内容は決まっていたけれどどんな効果が出るのかは想像することしかできない。だから、行ってみて状況に合わせて動けるようにしようと思っていました。一年になるか、何年いるかわからないけれど、できることを頑張りたいな、と」
応援隊に着任した佃さんは、仮設住宅内の自治会のサポートやまちづくり活動をとおして、陸前高田の復興に携わります。さらに活動の傍ら、飲食店などでアルバイトもしていたそう。聞けば、「実は結構、本業以上に思い入れがあるかもしれません」とか。
せっかくなので、ここから先はインタビュー場所を移動して、陸前高田のまちなかに構える居酒屋「車屋酒場」でお話を伺うことにしました。車屋酒場は、佃さんが4年前からアルバイトをしているお店のひとつです。
「アルバイトは、居酒屋の他にカフェやお寿司屋さん、隣町のレストランにも行っていました。きっかけは、知人の紹介や、お店の人とお客さんとしてのやり取りのなかで。『人がいなくて困ってるんだよね』という会話を真に受けて、ついつい『手伝いますか』と言ってしまうんです。これまで、全部で五軒くらいお手伝いしましたね。多い時は応援隊をやりながらカフェとお寿司屋さんと居酒屋、毎日どこかしらにいる!といった感じで。
大変なときもありましたが、いろんな場所でいろんな人に会えるのがすごく良かったんです。お店に行けばそこには常連さんがいるし、それぞれ客層も違うから、いろんな人と知り合いになれる。固い関係じゃなくてフラットに、軽い相談ごとをできるようにもなって。そうしたつながりができたのが、とても良かったなと感じています」
居酒屋「車屋酒場」。店主の熊谷栄規さんとは、佃さんが移住してから所属していたバスケットチームを通して知り合う。兵庫県にある佃さんの実家を訪れたこともあるそう。
「ここでのお手伝いは、家業手伝いと言ったりしています」と笑う佃さん。確かに、お店にいる佃さんからは、家にいるかのように心地のよさそうな雰囲気を感じます。
「車屋もそうですが、陸前高田に来てから、地元の人からも移住者の人たちからもすごく良くしてもらいました。最初は、外から移住してきて一人で暮らしていることを気にかけてもらって。関わっていくうちに、自分の両親よりも私のことを知ってくれているような人が沢山いるようになりました。普段家族と話せないようなことも、普通に話せるんです。今では、自分の父ちゃん母ちゃん、じいちゃんばあちゃんがまち中にいっぱいいるんですよね(笑)
沢山よくしてもらったぶん、自分も余裕があれば手伝いたいと思っているし、困っていたらなんとかしたいなって思うんです。飲食店に限らず、何か手伝いたい、というのは陸前高田に住んでいる限り思うのかな。復興が進んでみんなが家を建てたりお店ができたりしても、何か困っていると聞いたら手伝いたいっていう気持ちは、移住してから今もずっとあるかもしれませんね」
移住して7年。生まれたいろんな関係が、繋がっていくのが嬉しい
いわて復興応援隊の活動やアルバイトを続けた佃さんは、2018年に応援隊の5年間の任期を満了します。合わせて、任期中にボランティアとして通っていた気仙地域内にある福祉施設に就職。現在は保育士として、子どもたちのご飯を作ったり、学校行事に参加したり、子どもたちと毎日の話をしたりと、「みんなのお母さんのような生活」を送っているとか。
そして、職場が隣町に移ったことで、活動の範囲は陸前高田だけでなく、少しづつ広がりをみせています。
「これまで陸前高田でやっていたことを『周辺地域でも取り組んでみよう』となったとき、それまで関わっていた人たちに助けてもらうことがありました。『もう一個やるから手伝ってほしい』と言うと、みんな快く手伝ってくれて。今の職場がある大船渡の人と、陸前高田の人を繋いでみることもありますし、 陸前高田でできた関係がいろんなところで繋がることが嬉しいんですよね」
佃さんが立ち上げから携わっている「たかた☆ゆめキッチン」。月に一度、地域の子どもたちや保護者にむけて食堂をオープン。食と居場所の提供や、コミュニティづくりを目指して活動しています。
「誰かが何かをやるというときに、力になってくれる人がいっぱいいる。そうした繋がりがとてもありがたくて」と話す佃さん。きっと、陸前高田の人たちと一緒に「何かできることはあるかな」と動き続けてきた佃さんだからこそ、生まれた関わりがたくさんあるのだと思います。
「仕事を通して出会った人でも、その繋がりは仕事だけじゃない。陸前高田に移住してもう7年になりますが、『何をやっていたかな』と振り返ったときにいろんな人の顔が出てくるんです。
陸前高田に永住するかどうかとか、いつまでいるのかは、正直今でもわかりません。でも、陸前高田には他の地域にはない愛着というか、ここへの思いは他のどんな地域よりもある。一年先どうなっているかはわからないけれど、一生繋がっていたいなと思える場所です」
text:山﨑風雅