復興ってなんだろう。「当時の時間や雰囲気をもう一度感じられるような場をつくりたい」

2020.06.30

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2019年9月にオープンした「道の駅 高田松原」は、東日本大震災をうけて全壊した旧道の駅(タピック45)を、国や県と連携して再建した施設。高田松原津波復興祈念公園内にある道の駅には、市内で生産された農産物や加工品を購入できる販売所や飲食店、カフェなどが並びます。

竹田耕大(たけだこうだい)さんは、道の駅 高田松原(以下、道の駅)を運営する「株式会社高田松原」の立ち上げから参画。道の駅の開業後は、施設内店舗の管理や運営を続けてきました。

竹田さんが初めて陸前高田に訪れたのは、2011年のこと。それから移住するまでの7年間、そして移住してからの2年間。陸前高田と関わりながら、どのように過ごしてきたのでしょう。

インタビューは、日の光がたっぷりと入る道の駅の一角で。まずは、移住するまでのお話から伺いました。

「復興」ってなんだろう?

竹田さんは、神奈川県厚木市出身。陸前高田に訪れたのは、県内にある大学に入学して間もない2011年6月のことです。友人たちと一緒に、津波の被害を受けた地域のがれき撤去などを手伝うためでした。

初めて訪れた陸前高田の印象は、「テレビで見た光景と変わらなかった」という竹田さん。一緒に来ていた友人たちのように激しく感情が揺さぶられることはなかったものの、当時一緒に作業をしていた地元の人の言葉をきっかけに、陸前高田に関わりはじめることになります。

「最初に来た頃は、がれき撤去を中心に、復旧作業の手伝いをしていました。脇之沢(わきのさわ)地区の海沿いに、津波を受けて線路が途切れている場所があって、そこで一緒に作業をしていた人がつぶやいた言葉がとても印象に残っていて。

『この線路を直して同じ場所に作れば元に戻るけど、また津波が来たら流されてしまう。じゃあ、高台に動かすか?それはそれでお金がかかる。難しいね、復興ってなんだろうね』って。その一言が、すごくひっかかって。僕も『なんだろう、復興って』と思うようになったんです」

震災発生からまだ間もなかった当時、メディアやボランティアに訪れる人たちの間で頻繁に使われていた『復興のため』といった言葉に、どこか違和感を覚えていたという竹田さん。ボランティアとして活動するなかで「陸前高田に住む人にとっての”復興”と、ボランティアに来る人の思う”復興”って、なんかずれているんじゃないかな」と感じていたといいます。

「ボランティアに来る人は、町の光景を見て『あそこの瓦礫の山がなくなったね』と、震災後の”過去と今”の比較を復興をはかる物差しのようにして復興をはかっていると感じていました。でも、住んでいる人からしたらそうじゃないのだろうな、と。”復興”という言葉の使われ方に違和感があったから、改めて『復興ってなんだろう』と考えたとき、すごく気になったのかもしれません」

その後も継続的に通いながら、陸前高田市の復興をテーマに卒業論文を執筆するなど、復興について考え続けていた竹田さん。就職活動を機に「『復興とは何か』は自分が住んでみないとわからないな」と、移住することを意識し始めます。

大学を卒業した竹田さんは、一度神奈川県内のレジャー施設の運営に従事。入社から3年後の2018年7月、陸前高田市内で再建の構想が進む「道の駅 高田松原」を運営する職員の募集をきっかけに、陸前高田へ移住しました。

「僕、小さいころは遊園地とかテーマパークにたくさん連れて行ってもらっていたんです。非日常というか、みんなが笑顔になれるような楽しい場所が好きで、自分のテーマパークやレジャー施設をもちたいというような憧れもありました。だから卒業後まずは3年間と決めて、水族館で働くことにして。ちょうど3年が経つ頃、道の駅の募集を見つけました。陸前高田で施設運営に携わることができれば、移住をしたいという思いと、もともと好きなレジャー施設で働くという思いが両方叶っちゃうなと思って。区切りもいいし、応募することにしました」

身近にあるものからも「復興とは」が見えてきた

2018年7月、竹田さんは地域おこし協力隊に着任し、株式会社高田松原の社員として「道の駅高田松原」の開設準備に従事。現在は、2019年9月にオープンした道の駅で、物産産直エリアや飲食店の接客や売上管理などの施設運営に取り組んでいます。

お店での仕事についてお話していると、「本当は、なるべく裏方に回りたくて…」と竹田さん。自分が現場に出て仕事をするよりも、みんなが「楽しい」と感じる場作りのために陰で支える役割を担いたいと感じているそう。一方で、周囲で活躍する移住者をみて「自分はこれでいいのかな」と迷いがあったと話します。

「もともと陸前高田で生活すること自体を目的に移住したので、何かを成し遂げたいといった大きな目標などがなかったんです。だから精力的に活動している移住者の人たちと話していると、かっこいいなと思う反面、あまり表立った活動をしていない自分はちょっと場違いなのかなと思うこともあって。何か考えないといけないなと、焦りのようなものを感じていました」

仕事だけではなく、プライベートも含めて充実した生活を送るにはどうしたらいいのだろう、と考えていた竹田さんは、同じ移住者の友人の誘いをきっかけに、陸前高田市の伝統芸能である「生出鹿踊り」と「氷上太鼓」の練習に参加します。

「悩んでいた時に、鹿踊りや氷上太鼓を見つけて、やってみたら楽しくて。 地元の人たちと交流できるコミュニティにも入ることができたし、プライベートではこれを続けてみようと思いました。道の駅の仕事と、踊りと太鼓の練習、というように生活の軸ができてからは、少し安心したというか。今は自分の暮らし方を見つけられて焦ることはなくなったし、他にも興味のあることを少しずつやってみよう、と思いながら生活しています」

もともと「復興とは何か」という問いをもって移住した竹田さん。陸前高田で生活するなかで、「僕はやっぱり『復興とはなにか』ということを求めている部分があるのかな」と続けます。

「鹿踊りや氷上太鼓をやってみて気付いたのは、今までの自分は『復興とは何か』を大きな規模で考えすぎていたということでした。市や県という枠を通して復興を見ていたけれど、身近なところから考えることもできるなと思って。

例えば氷上太鼓なら、震災を機に打ち手が大幅に減ったり、衣装である法被がないためにTシャツで演奏をしたことや、太鼓も寄付してもらったこと。そうした過程を経て、今は全国規模の太鼓フェスティバルに出演したりしています。同じように、陸前高田の復興も、震災でいろんな機能が停止してから少しずつ戻っていく最中なんじゃないかな、と。氷上太鼓のような自分の身近にあるものごとから見ても『復興ってなんだか分かるのかもしれない』と感じました」

今、竹田さんが復興について考えているのは「”もの”を取り戻すことではなく、当時の時間や雰囲気をもう一度感じられるような場をつくる」こと。お祭りの準備期間に仲間と集まることや、休憩時間に揃って食べるご飯、そうした時間にこそ本当の復興があるのではないか、という仮説を持ちながら、仕事や生活に取り組んでいます。

「道の駅も、訪れる人の思い出に残るような場所でありたいと思っているんです。『夏は家族で高田松原の海水浴場に行ったんだ』とか、『その帰りに道の駅のコーヒー屋さんで休むのがお決まりだった』とか。あの時ああしてこうして、と思い出せるような、そういう時間を作れる施設にしていきたいです」

text:山﨑風雅

移住者プロフィール

竹田耕大さん

神奈川県厚木市出身。大学在学中、ボランティア活動をきっかけに陸前高田市を訪れたことを機に定期的に通うように。神奈川県内のレジャー施設に勤務したのち、2018年7月陸前高田市へ移住、地域おこし協力隊着任。株式会社 高田松原に入社し、「道の駅 高田松原」の運営に携わる。

インタビュー場所について

インタビューをした場所:「道の駅 高田松原」

東日本大震災をうけて全壊した旧道の駅(タピック45)を、国や県と連携して再建した施設。2019年9月にオープン。竹田さんは施設の開設準備から携わり、現在は施設内に構える飲食店「たかたのごはん」などの運営に関わっています。

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